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2007年02月13日

同級生が語りあう東京

ついに本の多さに耐えきれずヨメが引っ越しを決断しました。

現在の住処は、広さこそ狭い1DKではありますが、
駅から徒歩1分、途中遮るものなく新宿の夜景が望めるマンションの5階に位置し、
しかも近所にはテレビでもたびたび取り上げられる元気な商店街がひかえるという、
まさに掘り出し物の物件。

ヨメのいない一人暮らしなら死ぬまで住み続けたいくらい。
それはそれは便利で住みやすい部屋だったのです。

けれど物理的に本が置けなくなってしまったことと、
ヨメが悪夢(胴体部分が本になったぼくに押し潰される夢だとか)に
うなされるようになったために、とうとう住み慣れた町を離れることになりました。

そんなわけで週末はいろんな町の不動産屋さんをまわっているのですが、
ちょうどいまは、今春地方から上京してくる新入生たちの部屋探しが
ピークに達しているようで、親子連れで間取り図を検討している姿をよくみかけます。


そういえばぼくもこの春、上京して19年目を迎えるのでした。
気がつけばいつの間にか田舎ですごした年数よりも
東京で暮らした年月のほうが長くなろうとしています。

かといって、東京で暮らした年数のほうが長くなるということが
イコール東京が自分にとって故郷のような存在になったことを
意味するのかといえば、そうではありません。

東京にはいまも昔も「仮住まいの場所」という感覚しか持てずにいます。

それはたぶんこの都市が常に変化し続けていることと関係があるのではないでしょうか。
東京のような移ろいやすい都市で暮らすことに対して、
「腰を落ち着ける」とか「地に足のついた暮らしをする」という
安定したイメージをいまだに持つことができないでいるのは、
東京という都市がぼくにとってどこまでもとらえどころのない街だからに違いありません。


『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』(NHKブックス)は、
東浩紀と北田暁大というともに1971年生まれの哲学者と社会学者が
東京の現在を語り合った一冊です。

ぼくの知る限り、東京について語ることがもっとも熱を帯びていたのは
80年代ではなかったかと思います。

このとき東京はふたつの文脈で語られていました。
ひとつは江戸の視点を導入して東京を解読しようとする試み

そしてもうひとつがセゾン文化に代表されるような企業戦略と街づくりが
一体化した消費社会論的文脈ですが、この時代にはまだ
語られる対象である「東京」にはそれなりの輪郭があったように思います。

銀座は老舗と海外ブランドの店が建ち並ぶ一等地であり、
渋谷は公園通りのパルコを中心とした若者たちの街である、というような。


けれど、その輪郭はいつしかあいまいなものとなりました。

高級ブランド店と安売りチェーン店が同じ通りで軒を並べるようになり、
ロープライスな洋服をブランドものとあわせるのがいまでは普通のこととなっています。

それと同時に、セキュリティやバリアフリーに留意して設計された
郊外の大型ショッピングセンター的空間が都心にも進出してきました。
暗がりのある路地やごみごみした街路は駆逐され、
「人間工学的に正しい」空間が都市を覆おうとしています。

ライフスタイルと空間の均質化が進行するとともに
かつてのように無邪気に東京について語ることが困難になってきました。


この本が『東京について考える』ではなく『東京から考える』となっているのは、
現代のような語ることが困難になった地点から出発して
もういちど都市とぼくらの関係を考え直そうという意図が込められているからです。

東浩紀さんと北田暁大さんはともに1971年生まれの同級生。
同じように東京の郊外に育ち、同じテレビ番組をみて、同じ時期に大学に通うという
共通点の多いふたりですが、面白いことに現代の東京についてのとらえかたは
まったく違います。

東京の「西側」でばかり過ごしてきた東さんと
現在は東京の「東側」で暮らす北田氏との視点の違いが、
結果的にこの本の議論をバランスの良いものにしています。

それぞれの個人史から出発した対話は
やがて現代の東京に暮らす誰もが直面する問題へと発展していきます。

ひと言で言えばそれは「都市を覆わんとしている人間工学的な思想をどうとらえるか」
ということなのですが、時代の最先端の問題だけあって議論も熱をおびます。
このあたりの白熱した議論はさすがに要約不可能。
ぜひ本を手にとってお読みいただきたいと思います。

投稿者 yomehon : 2007年02月13日 10:00