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2006年07月05日

カズオ・イシグロの最高傑作!

幸運なときは年に2度ほど、
ツイていなければ数年に1度くらい、
つまりはごくごくまれな割合で、
このまま読み終えてしまうのが惜しいような、
読み終えたあともずっとその余韻が残るような一冊との出会いがあります。

そういう本に没頭しているときというのは、
比喩ではなく、ほんとうに時がたつのを忘れます。
『わたしを離さないで』カズオ・イシグロ 土屋政雄【訳】(早川書房)
ヨメの実家の座敷に寝転んで読んでいたときもそうでした。

最後の一行を読み終えて目をあげると、
いつの間にか雨が降っていたのに驚きました。
庭土の湿り具合をみると、もうずいぶん前から降っていたようです。
そのときにわかに雨足が激しくなりました。
張りのある若葉がパラパラと雨をはじく音が聞こえます。
その生命力にあふれた音を耳にしながら、
ぼくは、たったいままで読んでいた物語が
命をめぐる物語であることを思い出していました。


物語の語り手は、キャシーという女性です。
キャシーの職業は「介護人」。
介護人の仕事は「提供者」と呼ばれる人々の介護です。

このように、導入からいきなり大きな謎が待ちかまえています。
しかも読み進んでいくにしたがって謎はどんどん大きさを増していくのです。

「介護人」とはなにか。
「提供者」とはなにか。

それでも謎を抱えたまま読み進むうちに、
少しずついろいろなことが明らかになっていきます。

キャシーは「ヘールシャム」という施設にいたこと。
トミーとルースという仲間がいたこと。
ヘールシャムでは「保護官」と呼ばれる人々が授業を行っていて、
毎週のように健康診断が行われていること。
生徒たちはどうやら外部社会との接触がないこと。

読者がその「普通ではない世界」にようやくなじんだ頃、
こんどは少しずつヘールシャムの真実が明らかにされていきます。

それは衝撃的なものです。
真相を知った読者は、
彼らの人生があまりにも可能性を閉ざされたものであることに
愕然とするでしょう。


こんな場面を想像してみてください。
青春を謳歌して暮らしていたある日、
「あなたはもうすぐ死ぬのですよ」とか
「あなたには人並みの人権はないのですよ」と告げられたとしたら
どんなふうに感じますか?

『わたしを離さないで』は、
そんな過酷な運命にさらされた若者たちについて書かれた小説なのです。

小説のなかで描かれているのはふたつの事柄です。

ひとつは、「かけがえのない時間」について。
残された時間がそう多くはないことを知った途端、
若者たちの人生は切なく輝きを増します。

そしてもうひとつは、「人間は孤独であるということ」。
この小説の表紙にはカセットテープがデザインされています。
物語の重要なモチーフとなっているのが
「Never Let Me Go(わたしを離さないで)」という曲なのですが、
この曲がキャシーらの孤独をより際だたせます。


それにしてもカズオ・イシグロはたいへんな傑作を書き上げました。

ざっと小説の歴史をふりかえってみると、
19世紀までの小説は「人間」を中心に書かれていました。
その内容は人間讃歌であり英雄物語であったといえます。
(例としてはバルザックの『人間喜劇』をあげれば十分でしょう)

それが20世紀になると変わります。
「システム」や「テクノロジー」が驚異的に発展したために、
かつては前面にでていた人間が後景に退くようになります。
言葉を換えれば、システムやテクノロジーが発達するにつれて、
人間のできることがどんどん狭まっていき、
小説で描かれる人間像が小さくなっていきました。

けれどもカズオ・イシグロは、この『わたしを離さないで』において、
今日的な「テクノロジー」の問題を扱いながら
「人間」を復権させることに成功しています。

テクノロジーとシステムによってがんじがらめにされたなかにあって、
それでも輝きを放つ人間の生を見事に描いているのです。
(その輝きがどんなに切なく哀しいものであるにしても)


『わたしを離さないで』は、
発売後ただちに『タイム』誌の「オールタイムベスト100」
(1923年~2005年までに発表された作品が対象)に選ばれたのをはじめ、
欧米の主要な新聞や雑誌で次々に2005年のベストブックに選ばれるなど
昨年英語圏でもっとも話題になった小説です。

とても味わい深い小説です。
「最近いい小説を読んでないな」という方には特におすすめします。

投稿者 yomehon : 2006年07月05日 10:00