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2006年04月13日

やがてこの世にやってくる魂の物語

いまから17、8年前のことになるでしょうか。
よしもとばななの小説を初めて読んだ時の衝撃をいまでも忘れることができません。
『キッチン』と題されたその小説を(当時は“吉本ばなな”という表記でした)
僕は高校の図書館で偶然手に取りました。

いままで読んだことのない、まったく新しい小説を目にしているのだという興奮。
言葉を換えれば、自分と同世代の作家に初めて出会えたという興奮をおぼえました。
それはきっと、大江健三郎の『死者の奢り』村上春樹の『風の歌を聴け』をリアルタイムで
読んだ人が感じた興奮と同じようなものだったと思います。

でも、新しい小説の誕生に立ち会えたという幸運は、よしもとばななが最後でした。
数年前に綿谷りさと金原ひとみが芥川賞を受賞し、マスコミが「新世代の文学の書き手が登場!」と
大騒ぎしたことがありましたが、両者の作品は一見、最新のファッションを身にまとっているようでいて、中身は実に古風なものでした。

よしもとばななの新しさ。
それはイデオロギーや宗教に頼らないで世界をとらえようとするところです。

よしもとばななはこれまで、運命であるとか死であるとか、
人の力の及ばない大きなものについて書こうとしてきました。
イデオロギーや宗教といった枠組みでとらえるのではなく、全身をアンテナのようにして、
彼女は「人知の及ばない大きなもの」をつかまえようとしてきました。

最新作の『イルカ』(文藝春秋)で彼女が試みたのは、生命が誕生するまでの神秘的なプロセスを、
なんとか言葉で表現しようということです。

主人公は33歳のキミコ。
彼女はそこそこ売れている恋愛小説家で、
ブックデザインを出掛けている五郎のことを好ましく思っています。

これといって波乱万丈な物語が展開されるわけではありません。
でも、よしもとばななの小説の読みどころはそんなところにはありません。

よしもとばななが小説でいつも重視するのは「プロセス」です。

『イルカ』でいえば、五郎は年上の女性と長く同居していて、
ふたりの間には他人が割って入れないような絆があります。
五郎と距離を置きたくて、キミコは心に傷を負った女性が集まる駆け込み寺で食事を作ったり、
友人の別荘でひとり過ごしたりしますが、これらのプロセスがすべて、
最後に新しい生命と出会うために必要なことなのです。

「だれが考えたお膳立てなのだろう?と時々思った。
なにもかもが子供がやってくるというほうへ、矢印の先を示していた」(229P)

「それは運命というわけではなく、多分私の奥底が望んで呼び寄せたのだろう。
まだこの世にやってきていないある魂との出会いを。
長くいっしょにいることになる人間との縁を」(230P)

さまざまな出来事を経験したけれど、振り返ればすべてが必然だったと思える。
そして最後に、世界に対する大いなる肯定が用意されている。
『イルカ』もこのよしもと作品の基本パターンを踏襲しています。

けれど一方で『イルカ』は、よしもとばななの新境地を開く作品でもあります。
現実に作家の身の上に起こった妊娠・出産という大きな変化を、
全力でつかまえようと試みているからです。

「もはや体がまったく言うことをきかないので、ふっと気づくといつでもぼうっとしているのだった。
これこそが妊婦の世界だろう。生理で貧血のときと少し似ている。別の世界が自分のわきにぱっくりと
口を開けていて、いつでもそこをのぞきこめてしまう、そういう感じだった。別の世界は暗くて、風がごう
ごうと吹いていて、恐ろしい数の無意識の闇とつながっている宇宙空間のような世界だった」(219P)

「破水したらいきなり腹の中身が減ったので、急に体が軽くなった。そしてお腹の子供が突然外に出たいと言い出した。比喩ではない。その「出たい」という勢いが叫んでいるかのようにはっきりと伝わってきたのだった」(223P)

“こころとからだに生じたどんな微細な変化も見逃すまい”
そんな作家の意志が伝わってくるかのような表現が並びます。

よしもとばなながこの作品で描こうとしたのは、やがてこの世にやってくる魂との出会いのプロセス
でした。
その神秘的な物語を読みながら思い出したのは、解剖学者の三木成夫の本です。

『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書房)という本で語られる胎児の発生のプロセスは驚くべきものでした。

生物の歴史に起きたもっとも劇的な変化は、海から陸へあがってきたことだといわれますが、
同じように母親の胎内でも進化のドラマが再現されます。
受精後、胎児はまず硬骨魚類の型となり、その後、両生類・爬虫類・哺乳類の三段階を経て、
人間の姿になります。そして、まさに胎児が水棲段階から陸棲段階へと変化を遂げるときに、
母親の体は“つわり”になったり流産しそうになったりするというのです。

「拒絶反応なんぞといわれますが、そんなに単純なものではない。あの古生代の終わりの一億年をかけた、上陸の歴史で、まさに、母親のからだを舞台に、激しく繰り広げられている。母親はじっとそれを抱え込んでいるのです。(略)
原初の海に、太古の原形質が生まれたのが、今から三十億年前といわれております。以来この海水の中でえいえいと進化を続け、そのあるものは、少なくとも五億年前に脊椎動物の祖先となり、やがて、それが古代緑地へ上陸を敢行する。この悠久の物語りが、母胎の内では、わずか一ヶ月あまりの時の流れで再現される・・・」(95-96P)

このくだりを初めて読んだときは全身に鳥肌が立ちました。
いのちの誕生のドラマとはなんと凄いものか。

そういえば三木成夫は、よしもとばななの父親である吉本隆明に大きな影響を与えた人でもあります。
 『胎児の世界』(中公新書)という入手しやすい本もありますのでぜひ読んでみてください。

投稿者 yomehon : 09:03