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2007年10月26日

この30年で東京の落語界に定着したネタ ~『立切れ』は落語版『冬のソナタ』だ~

 私には20代から30代にかけて年に300回の落語会や寄席を梯子する時代があった。それから結婚して10年以上、殆ど落語を聞かない時期があり、2~3年前から、また熱心に聞き始めた。

 で、聞き始めみると、「東京の落語会や寄席で演じられる定番ネタが本当に変わったなぁ」という印象が強い。川柳川柳師匠の『ガーコン』みたいに、多少の変化を加えながら、ズーッと演じ続けているネタもあるけれどね。

 遠い昔、20代から30代へかけて無茶苦茶に落語を聞いていた時代、ホール落語はともかく、寄席でやたらと聞いたネタは『権助魚』だった。
 先々代小柳枝師匠の得意ネタから、立川談志家元の世代を経て、その次の世代へと伝わったネタだが、寄席に行くたびに、毎度毎度聞かされたように記憶しているほどだ。
特に昔の池袋演芸場で中堅の人たちがよく演っていた。15分前後でまとまり、当時としては誰が演っても受けるネタだから、演者も多かったのだろうけれど、何処か古色蒼然とした噺のせいか、最近は余り聞かないねェ。この夏は桂文生師匠で聞いたくらいかな。そう言えば、『反対俥』や『小金の大黒』も以前のようには聞かない。
 『反対俥』は立川談志家元、橘家圓蔵師匠、古今亭志ん五師匠、故・四世桂三木助師匠をはじめ、若手真打などが盛んに演っていたのを思い出す。柳家権太楼師匠がNHKの新人落語コンクールで準優勝した時のネタの筈でもある。体力が要る噺だから、中年に差し掛かると出来なくなるらしいけど。

 今も昔も変わらず、多くの人に演じられているのは『風呂敷』や『幇間腹』『宮戸川』辺りか。これまた15分で爆笑ネタになる。『風呂敷』は故・古今亭志ん朝師匠のおかみさんがいう「どこ行くの!」が印象に深い。
 『幇間腹』は先代三遊亭圓遊師匠の軽妙な高座が印象深いけれど、鈴々舎馬桜師匠が立川談生時代、これまたNHKの新人落語コンクールで準優勝した頃から演者が増えた。準優勝ネタは流行るのかな?「夢で天皇陛下がカップヌードル食ってた」というのは馬桜師匠の創ったギャグだけど、今でも他の演者で聞く事がある。
 一方の『宮戸川』は、古今亭圓菊師匠で、いやってほど聞いたが、春風亭小朝師匠が『お花半七』の題名で、真打昇進当時の十八番ネタにしてから、ニュアンスが「青春恋愛落語」へと変わった。小朝師匠の真打興行全体の千秋楽である東宝名人会の楽日も『お花半七』だった筈である。

 一方、『壷算』『町内の若い衆』『代書屋』などは、30年前は聞いた記憶が極めて少ない。『壷算』は、先々代三升家小勝師匠の十八番だが、その後、先代小勝師匠が割りと地味に演じられていたくらいで、東京では演者が非常に少なかった。尤も、東京ではこの先代小勝師匠から現在の若手・中堅に伝わったのだという。
 しかしその間、上方では桂米朝師匠から弟子の故・桂枝雀師匠へ伝わり、爆笑ネタとなっていた。その上方版の面白さを知って、現在の東京の若い演者間に“『壷算』を演ろう”という人が広がったのではあるまいか・・・
そのためか、現在演じられている『壷算』は、演出的にも米朝師・枝雀師の影響が明らかに感じられ、先々代小勝師の『壷算』とはややニュアンスが違う。
 現在の中堅・ベテランでは、古今亭菊龍師匠・林家時蔵師匠たちがまず演じられ始めたらしいが、私が『壷算』を一番早く聞いたのは五街道雲助師匠が真打になった直後。そして更に、柳家権太楼師匠が演じて、一気にインパクトが強まった。

 これは『代書屋』も似たような経路である。
 米朝師匠が東宝名人会に来援されると、ハメモノも見台膝隠しも要らないので『壷算』『持参金』『稲荷俥』なと゜を演じられていたのを覚えている。『代書屋』は談志家元の口演を77年の9月に聞いたのが私の東京演者初だったが、これは後半の異国の方の件まであるから、かなり度胸がないと演じにくい。
 一般的な『代書屋』を当時の若手で聞いたのは、それから数年後、これも雲助師が一番早かったが、それ以前に、柳家喜多八師匠が故・桂小南師匠から習って演じ始めていたという。尤も、小南師匠の『代書屋』は割と静かな演出の噺だったせいか、当時の喜多八師の所演は余り印象に強く残っていない。
 現在の中堅・若手が演じる『代書屋』は、前記の雲助師から広まったそうだが、これもやがて、権太楼師匠によって、枝雀師のニュアンスが取り入れられ、インパクトが高まった。権太楼師匠はその以前にも芸術協会の小南師匠の売り物で、落語協会では演じ手のいなかった『ぜんざい公社』を売り物にした時期がある。『町内の若い衆』も権太楼師匠の得意ネタだから、寄席の爆笑ネタ一手引き受けみたいなもんである。
 ちなみに、小朝師匠は笑いの多い上方ネタから、『鷺取り』(枝雀師匠)『色事根問から稽古屋』(故・桂文枝師匠)を二つ目時代を移し、得意ネタにしており、如何にも頭の良い印象を受けたものだ。また、『七段目』も、若手で演者が増えたのは小朝師匠の影響だろう。その他にも、志ん朝師匠の『酢豆腐』とか、談志家元の『芝居の喧嘩』『持参金』、柳家小三治師匠の『宗論』『猿後家』みたいに、1人の演者の名演によって、若手の演者が一時期、急に増えたネタもあるが。

 さて、そうした「この30年くらいで、爆発的に演者の増えたネタ」の王様(内容的には女王様というべきかもしれない)と言えるのが、上方落語の名作『芸者の真実 線香の立切れ』だろう(一般的に言えば、『立切り』ね)。
私はたまたま、米朝師と文枝師の口演を先に聞いていたが、先代三笑亭可楽師匠と先代桂小文治師匠が亡くなってからというもの、東京で殆ど演者の居なかったこの噺を掘り出したのは入船亭扇橋師匠、という答えで正解だろう。
 81年10月14日「三人ばなしの会」(扇橋師が小三治師、故・桂文朝師匠と開催していた伝説的なネタ卸しの会)でネタ卸しをされている。
 その時の、まだ上方版に近かった演出の高座も聞いているが(但し、最後に弾かれるのは最初から可楽師匠型の『黒髪』で、上方版の『雪』ではなかった)、更に1~2年の間に、自分流に刈り込んでガラッと雰囲気を変え、寄席の主任でも演じられ始めた。
 当時、映画評論家の寺脇研氏が池袋演芸場の主任で扇橋師の『線香の立切れ』に出会い、「素晴らしい!」と感激していたのを覚えている。因みに、『つる』や『団子坂奇談』『茄子娘』等も扇橋師が演じてから演者の増えたネタである。

 閑話休題。
 話を『線香の立切れ』に戻して、扇橋師が寄席でこの噺を演じるようになって以降、「東京でも出来るネタだ!」と分かったためか、当時の若手の腕自慢が争って、この噺を演じるようになった。数年の間に、入船亭扇遊師匠・林家源平師匠・小朝師・柳家さん喬師匠・林家正雀師匠・権太楼師といった面々が立て続けに演じ、86年に小三治師匠が演じるに至って、「東京の大ネタ」化したといえるのではあるまいか。
 私が一番最近聞いたのは柳亭左龍師匠で、10月の上野鈴本演芸場の中席夜の主任だった。そのほか、現在の東京では多くの人が演じている筈である。下手すると上方より演者は多いかもしれない。
『線香の立切れ』がこれほど、東京で流行した理由。それは優れたストーリー構成もあるが、泣きの要素を強くして演ずれば演ずるほど「純愛悲恋人情噺」として観客に絶対的に受ける!(特に女性)という点にあると私は思っている。
 最後に使われる音曲が『雪』か『黒髪』かなんて違いは関係ない(私はどうしても『雪』の持つ諦観のニュアンスが好きだが)。
 『線香の立切れ』は、いわば、落語版『冬のソナタ』なのである。
 本来、「線香が立切れました」というこの噺を見事に締めくくるサゲは、全落語の中でも屈指のドライなサゲなのだが(金を払わなきゃ芸者は三味線を弾かないってサゲなんだから)、そこまでに娘々した若い芸者の悲恋話をタップリ演じて、「泣かせ」を観客の心に行き渡らせておくと、本来のドライさが観客には感じられず、ひたすら可哀想になるのである。関西で女優・演出家・エッセイストとして活躍するわかぎえふ氏が若い頃、米朝師の『線香の立切れ』をウォークマンで聞いていて、通勤途中の電車の中で泣いてしまった、というご自分のエピソードを書かれていたが、そりゃね、恋愛に対して、ウブというか、夢のある人は男女問わず、泣くネタであり、展開ですよ。
 まして、東京型流行の源・扇橋師が、滋味溢れて淡々と演じて風趣を出すタイプの噺家さんで、東京型はそういう演出が根本になって描かれている。
そこへさらに小三治師が「純愛」の砥石で磨きをかけたから、ドライとは無縁になって、落語から一席物の人情噺ちゃった。上方型は、まだ番頭の描き方や、朋輩の芸者の登場に東京とは違う色合いがありますからね。

 この『線香の立切れ』の流行・定着こそ、時代と共にウェットの度合いを増し、だからこそ若い女性観客も増えている、今の東京落語の姿を顕著に現わしているものなのではあるまいか。商売になる噺なのだから流行するのが当然。私などはそう思うのだ。
 そういう「女々しい噺」が好きか?と言われると、ちょっと違うんだけどもさ。

 妄言多謝

                                        石井徹也 (放送作家)

投稿者 落語 : 2007年10月26日 11:29