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2019年07月09日

第161回直木賞直前予想② 『渦 妹背山婦女庭訓』


次は、大島真寿美さんの 
『渦(うず) 妹背山婦女庭訓(いもせやま おんなていきん)魂結び(たまむすび)』です。

「妹背山婦女庭訓」というのは、人形浄瑠璃の演目です。
作者は近松半二(1725年—1783年)。
本書はこの実在の浄瑠璃作者の生涯を描いた作品です。

「近松」という名前ですが、近松門左衛門とは血の繋がりはありませんし、師弟関係もありません。
物語の舞台は江戸時代の大坂は道頓堀。半二は、浄瑠璃狂いの父親に連れられて芝居小屋に出入りするうちに
作者を志すようになります。父親から譲り受けた門左衛門愛用の硯を手に「近松」を名乗りデビューを目指すも、
なかなかその夢はかないません。一方、浄瑠璃は次第に歌舞伎に押されるようになります。
そんな逆風の中、半二が書いた「妹背山婦女庭訓」が大ヒットとなるのですが……というお話。

この小説の読みどころは、半二の創作の現場を丁寧に描いているところです。
書くことをめぐる苦しみや落とし穴、また書くことでしか得られない楽しみなどが事細かに描かれているのです。

「ええか、半二、ひよったらあかん。書いている最中に、
書いているもんを勝手に裁いたらあかん。なんでもやれると信じて、
己を信じて、まずは書いていくんや」

「ただひたすらに文机に向かい、硯で墨をすり、起きているあいだは
二六時中筆を走らせる、あるいは芝居小屋でああでもない、こうでもないと
知恵を巡らすという暮らしを延々、来る日も来る日も黙々とつづけていると、
あるとき、ふと、底知れない虚無に足をすくわれそうになるのだった。
芯の芯まで消耗し朦朧とし、倒れこんだそのときに、それは口を開けて
待っている。その深淵はみてはならぬもの。のぞきこんではならぬもの」

「半二はふと己の手をみた。指を動かしてみた。
握っていない筆がみえた気がした。まだ書かれていない文字がみえた気がした。
わしはわしのためだけに浄瑠璃を書いてんのやない、とふいに半二は思う。
たとえばわしは、治蔵を背負って書いとんのや。いや、それだけやない。それをいうなら、治蔵だけやのうて、
筆を握ったまま死んでいった大勢の者らの念をすべて背負って書いとんのやないか。
ひよっとして浄瑠璃を書くとは、そういうことなのではないだろうか、と半二は思う」

読みながら、これは作者の大島さん自身のマニフェストだと思いました。
「書くことから決して逃げない」という覚悟の表明ですね。
そう考えると、穿った見方かもしれませんが、歌舞伎人気に押されて
客足が途絶えがちなこの時代の浄瑠璃が、現在の出版界にもみえてきます。
落日の浄瑠璃の世界にあって、ひとり奮闘する半二。
そしてその中から傑作「妹背山 婦女庭訓」が生まれるのです。

ところでこの小説は途中からメタ構造というか入れ子構造になっていて、
半二が書いたある物語の中心人物が、
途中から小説の語り手として登場してくるのですが、
直木賞の選考会では、この語り手の処理が議論になるのではと思いました。

というのも、この語り手がやや語りすぎなのです。
なにしろ半二が死んだはるか後の、現代についても語ってしまうのですから。
舞台袖に浄瑠璃の詞章が映し出されるようになっているとか、
イヤホンガイドなるものが登場しているとか、
半二が創作した人物が、半二に向けて呼びかけるかたちで語るのですが、
個人的には少しやり過ぎかなと思いました。

「作者が死んでも物語は生き続ける」ということなのでしょうが、
ここは選考会で議論になるような気がします。

投稿者 yomehon : 2019年07月09日 07:00