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2016年07月13日

直木賞直前予想その(3) 『家康、江戸を建てる』

門井慶喜さんの『家康、江戸を建てる』(祥伝社)にまいりましょう。

これはですね、一言で言うと「江戸のインフラ小説」。
江戸という都市がどのようにつくられたかをインフラの視点から描いたユニークな時代小説です。


天正18年(1590年)、小田原攻めの陣中で、
家康は豊臣秀吉から北条家の領地だった関八州をやると言われます。

北条征伐の功に報いるとみせかけて、
代わりに現在の領地である駿河や遠江、三河などを差し出させるという老獪なやり口でしたが、
家臣たちが反発する中、家康はこの国替えに応じます。

「関東には未来(のぞみ)がある」

家康は家臣たちにそう宣言するのです。

居城となるのは武州千代田の地にある江戸城。

とはいえ、家康がはじめて江戸に足をふみいれたとき、
そこには未来の繁栄を予想させるようなものは何ひとつありませんでした。


「これが江戸じゃ」
灰色の土地。
としか、言いようがなかった。
江戸城の東と南は、海である。いまは干潮のため砂地が露出しており、
竹の棒が何十本も立てられている。網でも巻きつけて魚をとるのか、
あるいは棒そのものに付着した海苔のたぐいを集めるのか。
いずれにしても、沿岸のところどころに藁葺の民家がさびしそうにかたまっているのは、
漁師町にちがいなかった。
西側は茫々たる萱原。
北は多少ひらけている。みどり色にもりあがった台地にそって農家がぽつぽつならんでいるのは、
唯一、心なごませる光景だった。
とはいえ、百軒あるだろうか。せいぜい七、八十軒くらいではないか。
駿府や小田原の城下町とくらべると、五百年、六百年も発展を忘れたような
古代的な集落でしかなかった。


その後、江戸は世界最大の人口を抱える都市へと変貌します。
(たとえば『歴史人口学で見た日本』など速水融さんの一連の著作をお読みください)

しかしこの時点では、誰もが「そんな未来はあり得ない」と考えたことでしょう。

「江戸の地ならし」をするために、
家康は次々と壮大なプロジェクトを命じます。

洪水の原因となる利根川の流れを東へと捻じ曲げ、
肥沃な大地を出現させたかと思えば(「流れを変える」)、
武蔵野に湧き出る清水を市中へと引っ張ってくる(「飲み水を引く」)などなど。

ぼくが面白く読んだのは、江戸独自の貨幣を鋳造するプロジェクトの話(「金貨を延べる」)。
独自の通貨を鋳造することで、水面下で上方との通貨戦争が起きるのですが、
金融もまた都市のインフラのひとつなのだという視点を教えられました。

物語はプロジェクトごとに連作短編のかたちでまとめられていますが、
まるっきりフィクションというよりは、ノンフィクションノベルと言ってもいいかもしれません。

江戸の街づくりに関しては、
鈴木理生さんの『江戸はこうして造られた』(ちくま学芸文庫)という凄く面白い本がありますが、
この小説を読むだけでもかなり当時の街づくりのダイナミズムがわかるのではないでしょうか。

それにしても切り口がユニークですね。
築城を描いた小説というのは他にもあるんですが、
都市を造りだすプロセスを小説にした例は
ぼくの乏しい知識ではちょっと思い浮かびません。


江戸時代というのは、
260年あまりも戦のない世の中が続いた日本史上でも稀な平和な時代でした。

戦に明け暮れた半生を送り、
「灰色の土地」と評された広大な土地を前にした家康の目には、
いったいどんな未来が見えていたのでしょうか。

天守閣の色をめぐる謎解きを描いた一編(「天守を起こす」)で明かされる家康のビジョン。
そこに作者は混迷する現代社会へのメッセージを込めているように思います。


ただ、今回の候補作のなかで、
もっともユニークな切り口で描かれた作品ではありますが、読み口はわりとあっさりした感じ。
そこが選考委員にどう評価されるかではないでしょうか。


投稿者 yomehon : 2016年07月13日 16:00