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2011年01月29日

 直木賞受賞作『月と蟹』


第144回直木賞は木内昇さんと道尾秀介さんとの同時受賞。
しかも芥川賞も朝吹真理子さんと西村賢太さんのおふたりが選ばれ、
ひさしぶりに華々しい受賞会見となりましたね。
朝吹さんのデビュー作『流跡』にあふれる才能には驚かされましたし、
西村さんも『どうで死ぬ身の一踊り』以来注目している作家です。
いずれおふたりの作品も当欄でご紹介いたしましょう。

というわけで、直木賞受賞作をあらためてご紹介したいのですが、
今回は戦後初の5回連続ノミネートの末の受賞となった
道尾秀介さんの『月と蟹』(文藝春秋)を取り上げます。

道尾さんの最高傑作といってもいいこの作品、
みなさんに味わっていただきたいポイントは、
なんといっても「少年の描き方の上手さ」でしょう。


物語の舞台は、鎌倉のほど近くにある海辺の町。
父親の会社が倒産して、この町へ越してきた小学五年生の慎一は、
父を病気で亡くした後、母親とともに祖父の家に身を寄せています。

一家は、しらす漁をしていた祖父がフェリーとの衝突事故で
左足を失った際に振り込まれたわずかな保険金と、祖父の年金、
それに母親のパート勤めの少ない給料で、細々と暮らしています。

大人の都合に翻弄されながら成長してきた慎一は心に屈託を抱えています。
2年前に引っ越してきて以来、いまだにクラスメイトにも馴染めません。
友人と呼べる存在は、親から暴力を振るわれていて、慎一と同じように
心に傷を負っている春也だけ。

放課後連れだって潮だまりで小魚や小エビをとって遊んでいたふたりは、
ある日、奇妙なヤドカリを発見します。
白い髭のある七福神の神様のように、
顔の両脇から二本の触角を垂らしたヤドカリを
彼らは「ヤドカミ様」と名付け、ささやかな願い事をするようになります。

「ヤドカミ様」をめぐって執り行われる少年たちの他愛もない儀式。
けれど彼らの儀式は次第に切実なものへと変わり、
やがて世界の歯車を少しずつ狂わせて行くのでした・・・・・・。


この小説の美点は、少年の心の揺れを繊細にすくいあげているところでしょう。
道尾さんはまるで登場人物と同化したかのようにその多感な内面を描いています。
このあたりの手つきは見事というほかありません。


「はたかれたいうてもな、そのときは笑いながらやってん。
昔はそうやってん。笑いながら嬉しそうに、ばしんって俺の頭はたいて、
俺も厭やなかってんで」
ゆっくりと一度、春也は瞬きをした。
見えない水が、不意にひたひたと胸に沁み込んできた。なにか言いたかったが、
何を言っていいのかわからない。
慎一は凹みの中が気になるふりをした。


なにげない春也の言葉の裏にある思いを敏感に察知する慎一。
親に暴力をふるわれている春也を前にしてどうしていいかわからない、
そのどうしようもない気持ち。あるいは、


両足にバネでも入ったように身体が軽かった。薄い雲を散りばめたような春の空も、
土に映るジグソウパズルのような葉影も、その影を踏む自分たちの両足も、
振り返るたびに広くなっていく海も、慎一はすべてが好きだった。目の前を行く
春也の背中も、息を切らしている自分自身も、ぜんぶが好きで好きでたまらなくて、
イチゴのパックを胸に抱えたまま大声を上げたかった。


「お金が欲しい」というヤドカミ様への願い事が叶って五百円玉を拾った後、
イチゴを買って秘密の場所へと向かうふたり。その時に全身にみなぎる高揚感。


少年というのはとらえどころのない存在です。
それは、「子ども」と「大人」とのあいだを揺れ動いているにもかかわらず、
「子ども」と「大人」両方の顔を兼ね備えてもいる。
だから、他人の言葉の裏に隠されているものを鋭く見抜いてしまうのも、
ちょっと嬉しいことがあっただけで途端に世界が輝きを増して感じられてしまうのも、
どちらもまぎれもないひとりの少年が持っている顔なのです。

でも、少年の心は、一方で脆さを抱えてもいます。
その心はまるでろうそくの炎のように不安定で、
わずかな空気の揺らぎにも翻弄されます。
そして時に制御できないほどに燃え上がり、少年自身を焼き尽くそうとするのです。


そこは海沿いの町だった。
しかし、どのあたりなのかはわからない。
静かにドアを閉め、車が向いているのとは逆の方向に、慎一は歩き出した。
一度も振り返らなかった。腹の底で、えたいの知れない黒々としたものが
渦を巻いていた。だんだんと視力が弱まっていくように、星も月も街灯も、
歩けば歩くほど暗さを増していく。夜の向こうを睨みつけながら慎一は歩いた。
飲み屋の電光看板が、ときおり道の反対側で光っていた。午後七時四十分。
まだそれほど遅い時間ではないことを慎一は知った。そして、今日が自分の
誕生日であったことを思い出した。


かねてから母親に男の影を感じていて
ある日、決定的な場面に遭遇してしまった慎一。
理不尽な出来事を前に、やり場のない怒りが少年の心を黒く染め上げていきます。
そして、ついに少年はヤドカミ様の前で願ってはならないことを口にしてしまうのです。


「この世から消してください」
それまで吹いていた風がやんだ。自分と春也と、台座の上のヤドカリ。
それだけを残して世界からすべての生き物が消えてしまったように静かだった。


ここから物語は加速していきます。
密度の高い心理描写が物語に緊迫感をもたらし、
予期せぬ結末へと向かって一気呵成に読者を引っ張って行きます。

そしてすべてが終わった後、少年に別れの時が訪れる。
わずかひと夏でも、人は一生忘れることのない経験を
手にすることがあるのだということが、深い余韻を持って描かれます。

まるでろうそくの炎を大切に両手で包みこむかのように
少年たちの心を細やかに描いた『月と蟹』は、
一連の道尾作品の頂点をなす小説といっていいでしょう。

投稿者 yomehon : 2011年01月29日 01:00