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2010年03月29日

芸術家の栄光と狂気


ちょっと前のことになりますが、週刊文春を読んでいたら、
直木賞作家の佐々木譲さんが阿川佐和子さんとの対談で
面白いことをおっしゃっていました。
ご自分のことを「職人作家」だという佐々木さんに、
阿川さんが職人作家と文学者はどう違うのかと訊いたところ、
佐々木さんはこんなふうに答えていたのです。

「文学者は自分の中で書くものがなくなっちゃうときがあると思うんですけど、
職人作家は受注生産者で『お題、ご注文があれば応えますよ』というものだと思うんです」

これは言葉を換えれば、「芸術家」と「職人」の違いということになるでしょう。

職人はまず注文ありきでものをつくりはじめます。
そこで求められるのはいかに注文主の期待に応えていいものをつくるかということ。

これに対し芸術家は、井戸を掘るように自分自身を掘り下げながら作品をつくっていきます。
彼らは誰に頼まれたわけでもなく、またどんなものが生まれてくるかわからないにもかかわらず、
何かに突き動かされるように創作に没頭します。

考えてみれば、芸術家ほど謎めいた職業はありません。
創作の現場では、神の導きとしか思えないような奇跡が起きることもあれば、
才能の泉の枯渇というあまりに残酷な現実に直面させられることもあります。
芸術家がまったくの無の状態からなにかを生み出すという離れ業をやってのけるとき、
彼の頭の中では何が起きているのでしょうか。
あるいは自分をいくら掘り下げてももはやなんの鉱脈にも出合えないと知った時、
それでもなお彼は創作への情熱を失うことはないのでしょうか。

そんな芸術家の精神のドラマをのぞいてみたいと思うのは、ぼくだけではないでしょう。


『天才 勝新太郎』春日太一(文春新書)は、数々の豪快な伝説で彩られた勝新太郎の、
これまで一般に知られることのなかった芸術家としての顔を描き出した力作ノンフィクション。
読み始めるとあまりに面白すぎてページを捲る手が止められなくなってしまうこの本は、
間違いなくノンフィクションの分野で今年の収穫に数えられる一冊です。

生前の勝新太郎といえば、金に糸目をつけない遊びっぷりなどがバラエティ番組で
オモシロおかしく語られ、世間では豪快なキャラクターの持ち主だと思われていましたが、
この『天才 勝新太郎』が描き出すのは、世間のイメージとはまるで対極にある
孤独で繊細な芸術家の姿です。


たとえば冒頭の撮影シーン。
読者はここでいきなり「芸術家・勝新太郎」のスリリングな創作現場を目撃することになります。

冬の日本海に面して建つ一軒のあばら家。
朽ちかけた小屋の中では、不治の病に冒された少女が、
盲目の中年男の絵を描いています。
男はもちろん勝新太郎演ずる「座頭市」。少女役は原田美枝子。

「冬の海」と題され、『新・座頭市』第二シリーズの第十話として
1978年にフジテレビで放映されたこの作品で、勝は主演のほか
監督・脚本・編集のすべてをこなしているのですが、驚くべきことに、
この時の撮影現場には台本が存在せず、勝が即興でいろんな役を演じて
試行錯誤を繰り返す中で、セリフを組み立て、映像のイメージを膨らませていくという、
普通では考えられない演出方法がとられていました。

なぜ勝新太郎はこのような演出方法をとっていたのか。
それは彼が「偶然生まれるものが完全なものだ」という考えを持っていたからです。

実はこの時の演出風景が録音テープで残されており、
著者がこの貴重なテープを入手してくれたおかげで、
ぼくらは芸術家が無から有を生み出す極めてスリリングなプロセスを
目の当たりにすることができるわけですが、その演出方法は、
勝自身の言葉をかりれば「神が天井から降りてくる」のを待つという、
まさに天啓という名の偶然の力をたのんだもので、こういうスタイルひとつとっても、
勝新太郎が紛れもない芸術家であったことがわかります。

撮影所近郊に建てられたセットが自分のイメージとは違うという理由から、
予算を度外視して本物の日本海の海岸にあばら家を組み立てる。
あるいは、打ち合わせをもとに脚本家が徹夜でまとめたハコ(大まかな筋立てのこと)を、
別のアイデアを思いついたという理由から現場ですべてぶち壊す。
このように勝新太郎の作品づくりの姿勢は、自らのインスピレーションをすべてに優先させ、
一切の妥協を排したもので、その結果、完成した「冬の海」は誰もが驚くほどの完成度でした。


『座頭市』シリーズが大ヒットし、『悪名』や『兵隊やくざ』などの人気シリーズも生まれ、
プロダクションも設立して勝新太郎は絶頂期にありました。
勝は京都撮影所の腕ききの職人たちに支えられ、日本映画界の最前線を疾走していたのです。

けれども「偶然」はきまぐれです。
テレビの台頭で映画業界は斜陽となり、勝もテレビドラマに活躍の場を求めました。
勝新太郎獲得に名乗りをあげたのはフジテレビ。
『座頭市』を週1のドラマでやるという話に勝も乗りました。
ところが、ここから歯車が徐々に噛み合わなくなります。

まず勝の妥協なき撮影がすべてのスケジュールを狂わせ、
オンエアが毎回綱渡りとなっていきます。
プロデューサーが京都からフィルムを運んで、放送30分前にフジテレビに
駆け込んで間に合わせたことも何回かあったというのですから凄まじい。

でも、つまずきの最大の原因となったのはなにより
勝新太郎が「座頭市」という役柄と同一化してしまったことでした。

脚本や演出を自分ひとりでやるうちに、
勝は「座頭市のことはオレにしか分からない」と思うようになっていきます。
そしてあろうことかその思いはやがて「オレにしか座頭市のことが分からないのは当然だ、
なぜならオレが座頭市なんだから」という考えへとエスカレートしていくのです。

ある時、座頭市の扮装のままカメラをのぞいて役者の動きをチェックしていた勝が、
突然「おい!座頭市はどこだ!座頭市がいないぞ」と叫んだ後、
「あ・・・・・・座頭市はオレか」とつぶやいたというエピソードが本の中で紹介されていますが、
いつしか勝は、自分自身と座頭市の境界すら見失ってしまうようになります。

太陽をみつめた後に目をつぶると真っ赤になるように、目が見えない座頭市の視界は
赤い色をしているのではないか、だから真っ赤な画面で芝居ができないかとか、
役と一体になるあまりに、勝はぶっ飛んだことを言いだすようになってしまいました。

袋小路にはまりこんでしまい、肉体的にも精神的にもまいってしまった勝は、
ついにフジテレビに降板を申し出ることになります。
最終回は「座頭市の目が見えるようになった」という設定で撮影されることになりました。
勝自身は疲れ果てていたため、監督は盟友の勅使河原宏にお願いすることとし、
最終回の撮影がスタートします。

案の定、「目が見えるようになったら座頭市はどうなるか?」をめぐって
ふたりの解釈は対立しました。
勅使河原は「人物が色とりどりに見えて・・・・・・」と客観的な映像として捉えていたのに対し、
勝は座頭市になりきった主観的な解釈を打ち出します。
それは、目が見える者からすれば思いもよらないけれど、聞いてみれば「なるほど」と
唸らされる見事な解釈です。座頭市と一体となった勝新太郎が、目が見えるようになった
座頭市の身にどんな変化を起こしたのかは、ぜひ本でお読みください。


勝新太郎のその後の人生も波乱にとんでいます。
黒澤明との出会いと決別、勝プロの倒産、撮影現場で起きた不幸な死亡事故、
自らの逮捕、体を蝕む病魔・・・・・・。

晩年、芝居の脚色を手掛けた勝は、「神が降りてこないんだ・・・・・・」と
珍しく身内に弱音を漏らしています。
かつて祝福をもたらした芸術家のもとから、いつしか神は立ち去っていました。
けれども、職人であることよりも芸術家として生きることを選んだ勝新太郎にとって、
いつの日か神が降りてこなくなるのは、もしかすると自明のことだったのかもしれません。


著者の春日太一さんは戦後時代劇の歴史を研究する若き学徒で、
京都の撮影所でカメラや照明、美術などを長年担当してきた職人たちへの
聞き取りをもとにこの本をまとめました。いずれも勝と苦楽をともにしたスタッフです。

どこまでも自らの理想を追い求め、
その過程で「座頭市」に取り込まれて自分を見失い、
破滅へと向かっていった男。
著者はその芸術家の栄光と狂気のドラマを、
貴重な証言をもとにあますところなく描き切りました。

この作品は、人物ノンフィクションの傑作としてだけでなく、
新たな「勝新伝説」を生み出した一冊として長く記憶されることになるでしょう。

投稿者 yomehon : 2010年03月29日 00:14