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2008年05月06日

今年いちばんの傑作エンタテイメントがドイツから上陸!!


「なんて壮大な物語だろう・・・・・・」

たったいま読み終えたばかりの
分厚い文庫本3冊を目の前に、思わずため息が出ました。

上中下巻あわせれば優に1500ページを超える大作です。
高い山の頂上を制覇したような
心地よい満足感にしばし陶然としているうちに、
次第に心の奥底から嬉しさが込み上げてきて、
やがてそれは興奮へと変わりました。

「素晴らしい!こんなスケールの大きな小説にはそうそうお目にかかれない!
この小説のためにゴールデンウィークをまるまる費やしたけれどそれがどうした!
間違いなくこの本は今年のエンタテイメント小説のNO1だぁ――っ!!」


こんなふうに大声で叫んでしまいたいほど素晴らしい小説、それは、
『深海のYrr(イール)』フランク・シェッツィング 北川和代・訳 上 下 (ハヤカワ文庫)です。

この本と出会ったのは丸の内オアゾの丸善書店。
帯のコピーが、3冊横並びで初めて読めるようになっているのですが、
文庫売り場でいきなり、


「ドイツで『ダ・ヴィンチ・コード』からベストセラー
第1位の座を奪った驚異の小説、ついに日本上陸」


とデカデカと書かれた宣伝文句が目に飛び込んできたのです。

そのコピーにつられて手に取ったもののなにしろ分厚い。
果たして休み中に読み切れるだろうかと一瞬怯みましたが、
ドイツで記録的なベストセラーとなった触れ込みならば
かなり面白いに違いないという期待感と、
「フランク・シェッイング」という名前になんとなく見覚えがあって購入しました。


読み始めてすぐに、宣伝文句にひかれた自分に腹が立ってきました。

「わざわざ大ベストセラーになった『ダ・ヴィンチ・コード』の名前を出して
人々の注目をひきたい意図はわかる。しかしこの表現は不適当ではないか?
なぜならこの小説は『ダ・ヴィンチ・コード』なんて足下にもおよばないくらい
スケールが大きく、深みがあり、なおかつ驚異的に面白いではないか!!」

そう、そもそも『深海のYrr(イール)』と『ダ・ヴィンチ・コード』では勝負になりません。

たとえば『ダ・ヴィンチ・コード』は3時間で読めるけど、 『深海のYrr』は5日はかかる。

『ダ・ヴィンチ・コード』でベースとなっているのは、『ムー』世代にはいまさらながらの
聖杯伝説や秘密結社、異端キリスト教のお話だけど、 『深海のYrr』はといえば、
最先端の地球科学や生物学などに取材した初めて知る驚愕の事実が満載。

なによりも読み終わった後『ダ・ヴィンチ・コード』のほうはほとんど何も残らないけれど、
『深海のYrr』は地球環境と人類の関係について深く考えさせられる、というふうに。


それにしてもこんなに分厚い小説が、出版されるやいなや、
またたくまに『ダ・ヴィンチ・コード』を抜いて
ベストセラーの1位に躍り出たという事実にも驚かされます。
「ドイツ人は長編小説が大好き」という俗説がありますが、
こんな重厚なエンタテイメントが爆発的に売れるということ自体、
彼の国の読書人口がかなり成熟していることを物語っています。


興奮のあまりつい前置きが長くなってしまいましたが、
『深海のYrr(イール)』がどんな小説なのかご案内いたしましょう。


舞台は現代です。
物語はまず、世界中で不可解な自然現象が観察されるところから始まります。

ノルウェーでは海底に蠢く無数のゴカイが発見されます。
物語の主人公のひとりであるノルウェー工科大学の海洋生物学者
シグル・ヨハンソンによって、この新種のゴカイは、海底のメタンハイドレード層を
掘り続けていることが判明します。

一方、カナダ西岸では、ホエールウォッチングの船やタグボートが
クジラやオルカの群れに襲われるという事件が頻発し、イヌイットの血を引く生物学者、
レオン・アナワク(この小説のもうひとりの主人公です)が調査に乗り出します。

この他、フランスでは謎の病原体に感染したロブスターが人々を死に追いやり、
世界各地に猛毒のクラゲが出現し、原因不明の海難事故も頻発します。

さらに大規模な海底の地滑りによって発生した大津波で
北ヨーロッパ諸国の都市が壊滅するにいたって、ついにアメリカが立ち上がりました。

ヨハンソン、アナワクら優秀な頭脳が世界中から集められ、
母なる海になにが起きているのか、原因を探り始めるのです。

そして彼らは、異変を起こした海洋生物たちが「ある共通の物質」を
持っていることを突き止め、そこからひとつの仮説を導き出します。

その仮説とは、人類にとって未知の領域である「深海」への扉を開くものでした――。


どうですか?面白そうでしょう。
ほんの少しだけネタばらしをすると、
この小説を映画にたとえるなら、 『アビス』『コンタクト』ということになります。

要するに人類以外の存在との「遭遇もの」だということです。

ただし早とちりしていただきたくないのは、
『深海のYrr』で人類が出会うのはエイリアンではないということ。

『アビス』に出てくる深海に棲みついたエイリアンのように説教じみたメッセージを
送ってはこないし、『コンタクト』でジョディ・フォスターが出会う地球外生命体のように
亡くなった父親の姿を借りて優しく語りかけてきたりはしません。
(どうもハリウッド映画で描かれるエイリアンはわかりやすすぎます。こんなに簡単に
人類と意思疎通ができてしまってはリアリティもへったくれもないと思うのですが・・・・・・)


『深海のYrr』で人類が遭遇するのはエイリアンでも何でもなく、
この地球上にずっと棲んでいる「ある生物」です。
(この生物の詳細を明かすとさすがに興を削ぐことになるので控えます)

そして、この生物とコンタクトをとるために科学者たちが知恵をしぼる。
まずここが読みどころのひとつです。

小説というのはホラ話の一種ですから、
読者を驚かすにはより壮大なホラ話をでっち上げればいいのですが、
ここで忘れてはいけないのは、ホラ話を構成するひとつひとつの部品は、
しっかりと説得力をもってつくられたものでなければならないということ。
大きなウソをつくには、細かい部分にウソがないようにしなければならないのです。

この点、 『深海のYrr』は、作者が取材に4年を費やしたというだけあって、
わずかなディテールにいたるまで科学的な裏付けがあり説得力があります。

ある生物はどんなふうに全地球規模で異変を引き起こしたのか。
この生物はどんな生態を持っているか。
コンタクトをとるにはどんな方法が有効か。

すべて「なるほど!」と思わされます。


キャラクター造型も見事。
いかにもヨーロッパの趣味人を思わせるヨハンソン。
イヌイットの出自を持つことに折り合いをつけられずに悩むアナワク。
このふたりの魅力的な主人公を軸に、さまざまな登場人物が交錯します。
(中には作者が取材した実在の科学者も紛れ込んでいたりします)


そしてなによりもこの小説を成功に導いた
いちばんのファクターは、深海を魅力的に描いたことでしょう。

海は地球の70%以上を占めているにもかかわらず、
僕たちは海のことをほとんど知りません。

地球上のどの大陸も水深200メートル程度の浅い海に囲まれています。
この浅い海は大陸棚と呼ばれ、漁業もここで成り立っています。

でもこの大陸棚が占めるのは海全体のわずか8%にすぎません。
大陸棚の向こうは、宇宙空間よりも解明が進んでいないといわれる未知の領域です。

たとえば海流ひとつとってもよくわからないことだらけです。

みなさんは海に滝があると聞くときっと驚くでしょう。
グリーンランドには、海水が滝のように深海に流れ込んでいるところがあります。

水の温度や塩分濃度の違いでそうなっているのですが、
ともかく深海にまで落ち込んだ水は、やがて大西洋に流れ込み、
赤道を越えて南大西洋から南米大陸の先端へと至り、
南極の海流に巻き込まれて太平洋へと押し出され、
再び赤道まで北上すると今度は東南アジアに流され、
インド洋、アフリカ喜望峰、南大西洋を巡り、
生まれ故郷のグリーンランドの海底へと戻っていきます。

この水の世界旅行にかかる時間はなんと千年!
この時間的スケールからすれば、人間の一生などまさに一瞬ですが、
こうした海流の仕組みはまだはっきりと解明されていません。

深海となるとなおさらです。

深海といえば、光も届かず氷のように冷たい水に
満たされただけの死の世界というイメージがありますが、
実は深海ほどたくさんの生物のいる空間はありません。
そこは光を必要としない未知の生物の楽園です。
『深海のYrr』のもうひとりの主人公のある生物もここで暮らしています。
それも地球上に人類が誕生するずっと前から。
こうした深海の生物の研究はよくやく緒についたばかりなのです。


『深海のYrr 』は、このような謎の部分を
うまく想像力で埋めることで成り立っています。

このように物語の面白さだけでなく、地球科学の最先端の情報に
触れることで味わえる知的興奮もこの小説の大きな魅力といえるでしょう。


最後に作者のフランク・シェッツィングについても触れておきます。
店頭で『深海のYrr』を手に取ったときになんとなく名前に覚えがあったのは、
『グルメ警部キュッパー』熊河浩・訳(ランダムハウス講談社)を読んでいたからでした。

ぼくには食べ物をテーマにした小説をコレクションする癖があるのですが、
この本は、ドイツ料理のレシピとドイツ・ケルンの美味しいレストラン情報が
のっているところに惹かれて、まったく予備知識のないまま手にしていました。

殺人現場に残された食べ物もつまみ食いしてしまうほど
食べることが大好きなキュッパー警部が味音痴の部下とともに
難事件解決に挑むという肩の凝らない読み物で、まさかこの小説の作者が
『深海のYrr』の作者と同一人物だなんて思いも寄りませんでした。

大急ぎで本棚から『グルメ警部キュッパー』を取り出して解説を読むと、
シェッツィングは生まれ故郷のケルンを舞台にしたサスペンス小説を
いくつか発表した後、2004年に発表された地球規模の危機を描く『群れ』が
ドイツで大ベストセラーを記録したと書いてあります。
この『群れ』が『深海のYrr』だったのですね。

ともあれ『グルメ警部キュッパー』『深海のYrr』を並べてみただけでも、
この作家の書くものにはそうとうな幅があることがわかります。
言葉を換えれば、たいへんなストーリー・テラーだということです。
事実、ドイツではシェッツィングは「ドイツのマイケル・クライトン」と呼ばれているらしい。

これほどの才能にハリウッドが目をつけないはずがなく、 『深海のYrr』
映画化が決定しています。(脚本は『羊たちの沈黙』のテッド・タリーだそう)

でも個人的には、これほどのスケールの物語が
ハリウッドのフォーマット(90分あたりで主人公が逆境を突破し、120分あたりで
エンディングを迎えるとか。詳しくは『時計じかけのハリウッド映画』をどうぞ)に
収まるとは思えません。ダイジェスト版なら成り立つでしょうが。

やはりこの物語の面白さを存分に味わうには、
上中下巻をじっくりと時間をかけて読んでいただくに限ります。

なんといっても今年最高のエンタテイメントです。
まだ5月です。時間はたっぷりあります。
夏休みの読書でもいいですからぜひいちど手にとってみてください!

投稿者 yomehon : 2008年05月06日 18:00