« ハリウッドにも負けない!迫力の海洋エンターテインメント | メイン |  消えたい願望 »

2007年08月12日

どこよりも早く!?今年の江戸川乱歩賞受賞作をイッキ読み!


モグラ、海坊主、ホトトギス、肉まん、シベリウス、マクベス・・・・・・。

寝不足の頭の中をこれらの言葉がぐるぐる回っています。
いえ、別におかしくなったわけではありません。
これらはある特殊な世界で使われる言葉たち。
ついさっきまでこの特殊な世界の物語にどっぷり浸っていたせいか
すっかり頭の中を占領されてしまったようです。

『沈底魚』曽根圭介(講談社)は、第53回江戸川乱歩賞受賞作。
夢中で読み耽るうちに、気がつくとカーテンの向こうが薄明るくなっていました。


なぜこんなにも夢中になって読んだかといえば、
この『沈底魚』が近年の受賞作の中では珍しい直球勝負の意欲作であったからです。


あくまでぼく個人の見立てにすぎませんが、
江戸川乱歩賞の受賞作には「ある傾向」があると思います。

あまり世間に内実を知られていないような職業やテーマを選び、
徹底的に取材し、その成果を作品に盛り込む。
結果としてその作品を読めば、ある職業やテーマについてそこそこのことがわかる。
そういう作品が乱歩賞の選考会ではウケるような気がします。
(ぼくは個人的にその手の小説を「情報小説」と呼んでいます)

過去、「情報小説」系の作品が受賞したケースはいくらでも挙げられます。
たとえば第42回受賞作の『左手に告げるなかれ』は、万引きを補導する保安士を
主人公の職業にすえその世界をしっかりと描いていましたし、
第47回受賞作の『13階段』は死刑制度や刑務官という職業を、
第50回受賞作の『カタコンベ』はケイビング(洞窟探検)の世界を、
それぞれマニアックなまでに描き出していました。

なにか目新しい分野について「へ~」と思えるような情報が盛り込まれていること。
もちろん授賞理由はそれだけではないのでしょうが、
こと江戸川乱歩賞に限ってはその手の作品が評価される傾向が強いと思うのです。


では本年度の乱歩賞受賞作『沈底魚』
「近年の受賞作の中では珍しい直球勝負の意欲作」であるとはどういうことか。

それはこの作品が、
これまでたくさんの先行作品が存在する警察小説のジャンルで
果敢に勝負を挑んでいることを指しています。

新人が手っ取り早く目立とうと思えば、
何か目新しいジャンルで勝負するのが利口なやり方だと思うのですが、
この作者はすでに数多くの作品が書かれている警察小説の分野で
自分の力を試そうというのです。

しかも警察の中でも作者が取り上げたのは「公安」でした。
いわゆるエスピオナージ(諜報機関)ものです。
これも乱歩賞では珍しい。
いったいどんな作品なのか、俄然、期待は高まります。


『沈底魚』の舞台となるのは警視庁公安部外事二課です。
警視庁では外事一課がヨーロッパとロシアを担当し、二課は中国と北朝鮮の事案を扱っています。
物語の主人公はこの外事二課の刑事・不破。

ある時、中国公安当局の高官が貿易会社副社長の肩書きで来日するという情報が入り、
主人公の不破はこの男をマークするという任務に従事します。
時を同じくして新聞に、現職の国会議員が中国に機密情報を漏洩していたという疑惑が
スクープされます。情報のもととなっているのは、米国に亡命した中国人外交官の証言でした。

沈底魚というのは、スパイの世界でいうスリーパー(眠れるスパイ)のこと。
何年もの間、ごく普通の市民として生活し一般社会の中に溶け込んでいますが、
いったん組織からの指示が下れば工作員として活動を始めます。

その沈底魚が一市民ではなく現職国会議員だというのです。

この驚愕の情報を前に公安刑事たちの極秘捜査が始まります。


公安を扱った名作といえば、真っ先に思い浮かぶのが
逢坂剛さんの『百舌の叫ぶ夜』をはじめとする一連の「百舌シリーズ」ですが、
あの作品が記憶をなくした百舌という殺し屋を主人公にした
どちらかといえば小説でしかありえないような設定の娯楽作品だったのに比べ、
この『沈底魚』はどこまでも現実に即した公安警察の姿を描こうとしています。

そのせいか物語は娯楽小説的な派手な展開をみせることなく、
地味で抑制された印象を読む者に与えます。
もしかするとこの点は読者の好みが分かれるかもしれません。


公安警察という組織が、
さまざまなルートから情報を集め、
その情報をこねくりまわすことで事件の絵を描いていくものだとするならば、
『沈底魚』での作者の試みは成功しているといっていいでしょう。

はたして現職国会議員の●●は中国の大物沈底魚なのか。
それともこの情報はガセネタなのか。
いや、そもそもこういう情報が流れること自体、中国側の罠ではないか。

オセロが黒から白、白から黒へと変わるように、次々と事件の見え方が変わります。
事件の見え方が変わるのは、何かどんでん返しのようなものが仕掛けられているからというわけではなくて、
ひとつの情報に別の角度から光を当てると突如見え方が変わるのです。

そして事件の見え方が変われば、これまでノーマークだった人物に
突然疑惑の火の粉が降りかかることもあり得ます。

これまで真実だと信じられていたものが、見方を変えた途端、偽りへと転じる。
公安の世界では、これは当然の常識のようです。

けれども一方でこれは、情報に振り回されているとも言えないでしょうか。
主人公の不破もそのことにたびたび空しさを感じます。


情報ひとつで事件の相貌ががらりと変わる特殊な公安警察の世界。
そしてその組織に属する者たちの人間ドラマ。
『沈底魚』はこのふたつを巧みに描いて読ませます。

ストーリーが地味なことをもって文句を言う向きもあるやもしれませんが、
ぼくはあえて大人のミステリーとして肯定的に評価したい。

夏休みの息抜きにオススメできる作品です。

投稿者 yomehon : 2007年08月12日 15:05